近しい友人の婚約が決まったとか,このまま交際が続けば結婚するかも,みたいな話がちょこまか耳に入ってくるようになりました。
つまりは,そういうお年頃です。
働き始めてから数年での結婚は,つまり,そこまで非常に順調なペースで社会的な,個人的なアレコレをこなしてきたことを意味します。素直に,大したものだと思います。
私はといえば,そういったルートからは少しずれています。望んでそうした部分も,結果としてそうなった部分もあります。悔しさも優越感も,どちらもちゃんとあります。
学生時代に「誰が早く結婚しそうか」というお喋りで,僕は結構早そうということになっていたのですが,その予想はとりあえず外れそうです。天邪鬼な僕の性格からすると,これはそう悪い話ではありませんん。私は少々周りの期待を気にしすぎる傾向があったので,そういった鎖を切断する作業は,長い目でみると結構大事なんだろうという気がします。むしろ,それをやらないで迎えた未来の方が,空恐ろしく感じます。
ただし,早々に結婚する自分も,別に考えられないわけではありません。そういう未来も,そういうルートも,確かにあったのかなと思います。あそこでこうしていたらとか,そこでもっと粘っていればとか,色々と分岐のポイントはありました。それら一つ一つが,結構心に響いてきます。その分岐の先には,嫉妬してしまうような輝かしい可能性も結構あります。まあ,当然その逆もありますから,ポジティブでもネガティブでもない微妙な心持ちに収束します。
そして,これにさらに別のモヤモヤが加わります。
私はそういったifの世界をさも現実世界と同じように存在するかのごとく語ることに対して納得していないのです。なかったことを語る文章を作るのは簡単です。私だけでない,色々な人に起きた事柄の主語や述語を入れ替えたりすればそれっぽくなります。ですが,それが自分の過去や現在と比べうる存在感をもつというのが,どうにもしっくりこないのです。
なかったと完全にわかっていることと現状とを比べて,なぜ私は一喜一憂するのでしょう。この疑問はこう言いかえるべきかもしれません。if世界の私と現実の私は同関連しているのでしょうか。
現実の私に関する情報が,他の情報よりも特別に処理されているのは一旦よしとします。うるさい部屋でも自分の名前だけはよく聞こえたりしますからね。では,if世界の私は私に関する知識と言えるのでしょうか。厳密な意味では,それは私には関係ないはずです。それはどこにも実体化していないわけですからね。誰かに言われたのでもない限り,それが文章化した命題として目の前に現れたわけでもありません。もちろんそういう場合もありますが。
そう考えると,if世界の私は外からの新しい情報として現実の私の情報体系に取り込まれているわけではない気がしてきます。ということは,私の脳内で勝手に発生したものと考えるべきでしょう。現実の私に関する知識だけではもちろん足りませんから,それ以外の知識をあわせて適当に組み合わせたキメラが,すなわちif世界の私なのではないでしょうか。
このキメラを生み出すのも,それを眺めて心揺らすのも,すべて私の脳内で完結しています。もしこれが正しければ,びっくりするくらいマッチポンプです。まあ,それぞれの過程は違う脳細胞がやっているのでしょうから,そういう次元では問題ないのでしょう。でも,ヒト一人を単位とすれば,勝手に作って勝手に狼狽しているだけです。こう見ると,なかなかコミカルです。
いずれにせよ,if世界に生きることはできないので,現実を生きる他なさそうです。if世界を生きることができたら…,というさらに高次元なif世界(メタif世界?)を考えることもできますが,ここまでくるとさすがに話がとっ散らかってくるのでやめておきます。
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