墓参りとエンタメ(疑似日記part4)

疑似日記 (byササキ)

祖父の命日ということで,墓参りに行きました。

線香や花を取り換え,水鉢を綺麗にして,必要に応じ周りの雑草を抜きます。それが終わると,正面に立ってお参りするのですが,このとき毎回困ります。

竿石に水をかけ,合掌するところまでは問題ありません。ですが,手を合わせている間一体何を考えればいいのでしょう。

先祖の冥福を祈ればいいのかなと思いますが,冥福を祈るとは具体的にどういった祈りなのかわかりません。仏教的世界観が因果応報を主張するなら,死後の状態は生前の行いによって決まるはずなので,私の祈りでどうなることでもありません。子孫の祈りで先祖のQOLが上がるかは謎です。

他の有力候補としては,私の願いが叶うようお願いするという案もあります。「仕事がうまくいきますように」的なのです。もっと穏当に「見守っていてください」でもいいでしょう。しかし,こういうのはどうにも図々しい気がしてしまいます。それに,もし具体的な願いが叶ったとして,それをどれくらい自分の功績として喜べばいいかも曖昧になります。ただでさえ因果の考察は複雑なのに,検証困難な要因を増やすのは考えものです。

最近はもう面倒くさくなったので,何も考えないようになりました。強いていえば,「お世話様です」くらいの心境でいます。寺まで来て,然るべき所作で墓を整え,掌を合わせている時点でなんらかの誠意は示せているはずです。特に文章化可能な状態にしなくても,それで事は足りているのではと思います。

ところで,心中で発した言葉というのは,先祖に届いているのでしょうか。届いているとしたら,私のような人間の祈りはかなり退屈なはずです。なにも考えていないのですから。

そう考えると,なんか悔しい気持ちがします。端的に言って不名誉です。合掌している数秒で面白がらせるネタは何かないでしょうか。

持ち時間的に一発ギャグしかできませんが,祈りの姿勢が崩せない以上,言葉しか使えません。しかも,同じ時代を生きていないので共通の文脈がありません。笑いにとってこれは致命的です。同時代の人を笑わせるだけでも無理なのに,世代をまたいで楽しめるギャグなど論外です。笑いをとろうというのが,そもそも悪手でしょう。

とりあえず妥協案として,毎回1つだけトリビアを言うというのがいいかなと思いました。手を合わせながら「パフェの語源はパーフェクトである」とかボソッと言えば,聞いた先祖も「そうなの?」となる気がします。それを毎回やっていれば,そのうち,次はどんなトリビアを持ってくるか楽しみにし始めるかもしれません。そうなったらまあ,退屈の誹りは免れる気がします。

トリビアなんて,インターネットから雑に拾ってくればいいだけです。先祖にはできなかった芸当でしょう。便利な時代です。

※疑似日記とは?
https://psychseeing.org/gn1-gijinikkinitsuite/

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