映画『インディペンデンス・デイ』では,宇宙人という絶対的な外敵のために,世界が迷いなく一つになっていました。そこには,「宇宙人を倒して世界を守る」という人類共通の正義があったのです。
「現実の世界にも,こういうわかりやすい正義があればいいのにな」とずっと思っていました。そして,コロナウイルスはそれを叶えてくれました。今まさに,世界中が感染対策の名の下に動いています。
※当然ですが,私も感染拡大の一刻も早い収束を願っています。
しかし,実際にその状態が長引くと『インディペンデンス・デイ』のような一体感や爽快感はあまり感じられなくなりました。
未だに感染防止は「わかりやすい正義」のままでいてくれているのですが,そのための戦いが長期にわたり,日常生活に組み込まれると,それ以外の正義や事情との衝突が起きてくるのです。
例えば,感染拡大のためには外出自粛が絶対ですが,それはそれで身体を壊しますし,経済も回りません。それに,心理的な辛さもあります。我慢には限度があるのです。
こんなことは当たり前のことでしょう。「命が最優先」だけが我々の行動原理ではないのです。
たとえば,命が最優先という正義を額面通りに実行すれば,我々は自動車という移動手段をすぐに捨てなければなりません。毎年大勢の人が事故で亡くなっているのですから。しかし,自動車がなくならないのは,我々が「便利さ」という別の正義も持っているからです。
しかし,こういう当たり前のことが無視されていると感じる時があります。それは,「感染防止のために○○するな」という風に言う人の目を見た時です。
そこには,他の理屈を,事情を,正義を受け入れる気が全くないように見えるのです。そこには,もし少しでも反論されれば「命は何よりも大事でしょ」で話を打ち切ってしまうであろう気迫というか,有無を言わせぬ平板さがあります。
「わかりやすい正義」と共にある間は,自分は絶対に打ち負かされないという確信があるのでしょう。そして,それは自分が強くなったような感覚を与えているはずです。実際,妙に生き生きしているケースが多いと感じます。
私はこれが,ひどく苦手です。そして嫌いです。そこにあるのは思考停止であり,さきほど書いた「当たり前」の事実をちょっとでも指摘しようものなら,犯罪者を見つけたかのような口調で糾弾されてしまいます。
繰り返しますが,私は感染の収束を願っていますし,そのための外出自粛なども必要だと思っています。そこに異論はありません。しかし,それ以外の何をも認めないという妄信が問題なのです。
妄信の前に一個人ができることは多くありません。こちらの話を聞こうとしていない相手に,対話で向き合うことには限界があります。テキトウにいなすか,関係の崩壊を覚悟で徹底抗戦する他ないでしょう。
「わかりやすい正義」を以て向かってくる人の目的が,実のところ「自分が強くなったような感覚」を得ることにあるとしたら,こちらの口答えそのものが即,宣戦布告と受け取られる可能性すらあります。感情的になったら,さらに話は通じません。
もちろん,コロナに関する忠告をしてくる人が全員そうだということではありません。あくまでも,その一部です。ですが,無視できない存在ではあると思っています。
なにも胸のすくような対処法は思いついていないのですが,せめて自分自身が妄信に陥らないように,ちょっぴりセルフチェックしてみることにしています。
ちなみに,恋は盲目とか言いますが,そういうタイプの妄信は別に良いんじゃないかなと思っています。
コメント